児童文学評論記録

児童文学を評論する中年の日記

番外編 中学・高校の演劇部でよくあること

 趣味で中学生や高校生の演劇部をコーチしている。これまでもう三校くらいに教えたか。どこの高校も偏差値55から60あたりのところで、それなりにみんな素直だし、楽しくやらせてもらっている。

 ここ十年見ていて感じるのは、もう最近は演劇が好きで演劇部に入る子は少ないということである。いや、都市部をのぞけばプロの演劇を見ることなんてそうそうないし、我々の現役時代も「本を読むのが好き」「目立ちたい」「衣装つくるの楽しそう」程度の理由で入る奴がほとんどだった。

 しかし昨今はちがう。

「声優になりたい」「アニメが好き」「ボカロにはまってて」

 いま教えてる学校では新入生の半分以上がこんな感じである。その都度、いや声優さんの演技は舞台のものと勝手がちがうよ。公演で扱うのはアニメとはかけ離れたもので、いわゆる2.5次元ミュージカルみたいなことはできないよ、と伝えている。

 で、毎年一人くらい「大丈夫です!舞台で演技の基礎を身につけて声優になります!」という子がいる。こっちもめいっぱい期待する。ところがこの手の子に限って、基礎練もやりたがらないし、脚本を読むのもつまらなそうだし、プロの舞台を見るのに誘っても「高い」と断られてしまう。下手するとやめてしまう子もいる。

 おそらく、こちらも無意識にプレッシャーをかけすぎているのだろう。尊敬する先輩が「子供には手と目をかけろ。期待はかけるな」とよく言っていた。教える立場になって、その難しさがよくわかる。

 声優になりたい、とまではいかなくてもアニメとマンガの世界を公演に持ち込みたがる子は多い。オタクにしかわからない台詞をアドリブで入れるとか、宣伝ポスターにアニメ調で女の子を描くとか、客出しにボーカロイドの音楽を使うとか……。

 生徒たちにとって、アニメとマンガの世界ってすごく安心できるものなんだろうな、と思う。思春期の過酷な時期に趣味の世界に入りこむのって、核戦争になったらシェルターに入るようなものである。心を豊かにする、とかそんな悠長な話じゃない。生命維持装置みたいなものである。だから彼ら彼女らがアニメを好きでいてくれることはうれしいし、ずっと楽しんでいてほしい。

 でもそれを公演ち持ち込まれると微妙な気持ちになる。私は生徒に演劇のプロになれ、なんて言いたくない。でもお客さんを楽しませる喜びは知ってほしい。そのためには譲れないラインがある。だから「けものフレンズのことは審査員の先生にわかんないよ。ネタとしてやるならせめてジブリくらいのアニメにしとこうよ」「高校の漫画部やイラスト部の子に比べても君は絵を描きなれてないよね。いくら上手いといっても、描く量が足りてないよ。画像加工のソフトで写真やフォントを組み合わせたほうがいいポスターができると思う」「今度の脚本はケラリーノ・サンドロヴィッチだよ。それを見終わったあとにボーカロイドの音楽は微妙じゃない?」と説得する。たとえ嫌な顔をされてもだ。

多分、わたしは古くて、頭が固いのだろうと実感はしている。でも、 どんな表現も世界観が統一されていることが一番大事だと思う。市民会館あたりで高校生がメイド姿で萌え声のお芝居をしても、「アニメ・マンガの要素を取り入れた」ことにはならない。単なるにぎやかしの余興になる。一度、「二次元もの」をもとにした舞台を見るとわかるが、あれはスタッフは死に物狂いで成り立っている。作品の迫力、かわいらしさ、勢いを表現するために照明も音楽も大道具も細心の注意を払っている。キャストはキャラクターになりきるため、体づくりを徹底するし、演技も妥協しない。こうした努力なしではアニメとかマンガとかゲームの世界って、人間が演じてもまったくおもしろくない。

 そして私は生徒に余興はやらせたくない。失敗してもいいから、ひとつの芸術作品をつくってほしい。だからまずは自分たちができる範囲の舞台のための作品—鴻上尚史とか柿喰う客とかキャラメルボックスとか—あたりをモノにしてほしいな、と思っている。

 

朝びらき丸 東の海へ(C.S.ルイス)

 ナルニアシリーズとはすなわちキリスト教の宣伝みたいなものだなあ、と年を経るごとに強く思う。同時にルイスの教育観ってけっこう頑固だとも感じる。

 今回初めて登場するユースチス君は、両親をファーストネームで呼び、標本の虫を好み、物語や空想を馬鹿にする子供である。いとこのペペンシー一家の四人きょうだいと一夏を暮らすことになる。ユースチスはいとこたちをどういじめてひどい目にあわせてやろうか楽しみにするが、ひょんなことからあのナルニアの世界に飛び込み、船旅に出かけるはめになる。

 最近、異世界転生ものが流行ってるが、チート機能でちやほやいわれる昨今のラノベと違い、ルイスの異世界ファンタジーはなかなか壮絶で過酷である。考えてみればファンタジーの世界なんて中世とか近世を舞台にしてるんだから電気もガスも娯楽もないのである。行っても楽しくないのが当然か。

 さて、船旅に強制連行されたユースチスであるが、力の限り反抗する。日記を毎日つけたり、カスピアン王子に共和制を説いたり、現代っ子ぶりを発揮する。そして島についたとたんに単独行動を取り、財宝を見つけるが、なんと龍になってしまう(余談だが、私はこの手の異類変身譚が苦手だからR表示のように異類変身譚表示をしてほしい。いきなり動物とかちがう姿になるのは嫌である)。ところが彼の改心とアスランの魔法とで、どうにか人間の姿に戻ることができる。

 数々の冒険を経て、一行は元の世界に戻る。そしてユースチスは前よりもずっといい子になってしまい、親戚のおばさんから「こう当たり前になったのは、ペペンシーきょうだいのせいにちがいない」と疑われるところで話は終わる。

 一昔前の作家はユースチスのような想像力のない、かわいげのない子供にひどく冷淡であった。だからこそ作中で「龍の欲深い心を抱いたから龍になった」などと書かれてしまうし、その経験を経て「いい子」に変えられてしまう。たしかにユースチスのような子がそばにいたらとても嫌だけれど、だからっていい子に矯正してしまうのはファンタジーの傲慢である。

 その点に関して言えば、赤木かん子が「世の中の本読みには妄想系とデータ系がいる」と論じたのは大きな進歩であった。物語が好きでたまらないタイプもいれば、図鑑を眺めるのが幸せというタイプもいるのである。赤木の「なんでも受け入れますよ」という態度はちょっと鼻につくが、まあその点は認めてやってもいい。ついでに言うと、木地雅映子とか梨屋アリエとか藤野恵美あたりの「変わった子、受け入れます!」みたいな姿勢も苦手である。理由はわからない。多分私はルイスの生まれ変わりかなにかなのだろう。

 

『悪い本』(宮部みゆき・作 吉田尚令・絵 東雅夫・編)

 岩崎書店のとってもこわい「怪談えほん」シリーズである。他が幽霊とか妖怪とかそういうのをテーマにしてるのに対して、さすが宮部みゆき。人間の悪意について書いている。

 この温もりある絵と恐ろしい文章というのは『あけるな』以降、なかなかお目にかかれなかった。というわけでとっても嬉しい気持ちで読む。しかしよくできた作品である。

 冒頭から『悪い本』は自分が悪い本であることを伝える。悪いことの書いてある本なんかいらないと思うでしょう。それは間違い。あなたはいずれ悪いことをしたくてたまらなくなる。そして、そうなったとき、あなたはこの世で一番強い。

 『クロスファイア』しかり『魔術はささやく』しかり『ぼんくら』しかり、宮部みゆきの作品には悪いことをして強くなる人が老若男女を問わず出てくる。世間から外れてもやりたいことがあるから、なんでもないとこに火をつけたり、物事を予知したり、長屋の住人を締め出そうなんて考えられる。そしてその力の大きさがめぐりめぐって自分にはね返り、大変な事態を引き起こしてしまう。だから子供たち、悪いことはしてもいいけど、あとあとのことは覚悟してね、というメッセージかと思っていた。

 しかし何度か読んでしばらく経つと、むしろ宮部は「悪く」なることを推奨しているようにも思えてきた。たしかに悪いことをすれば自分もまわりも傷ついてしまう。でも迷惑な強い力で世界を変えた人というのは多いのではないのか?推測だけれども野口英世とか、ガリレオ・ガリレイとか、本田圭佑なんかはとても口に出せないような社会に対する怨恨を持っている気がする。むしろその邪な気持ちこそが彼らの人並み外れたパワーになったのではないか。もっと言えば文学。どう転んでも自分が悪いのに、それを通り魔的に人にぶつける作品は面白い。もちろん読んでるほうも疲れるし、書いてるほうもかなり消耗しちゃうんだけど……。でも言われてみれば最近そういう作品を読まない。作家も変わった。ある文芸作家が「人を圧倒してやろう、みたいな気持ちで本を読むのはよくないんじゃないか(意訳)」みたいなことを言っていてすこし驚いた。「人を痛めつけてやりたい」って動機でやる文学、悪くないと我々の世代は思うんだけど。

 そういえばツイッターでちょっと前に「ずるいという言葉は卑怯な手段を使った人に言う言葉。相手が間違ってなければうらやましいというべき。(やっぱり意訳)」みたいなのが話題になってて、悩んでしまった。わかる。うちの息子も特性的に怒りとか悲しみを引きずるタイプだし。はじめからネガティブな感情を持たないほうがこちらも対応が楽だし。

 でも、「ずるい」という気持ちは止められない。相手は悪くないのに、ちっとも許せなくて、腹が立ってなにも手につかなくなる瞬間が一度はやってくる。冗談抜きで世界中の人間を痛めつける方法を探すしかないときがやってくる。そしたらもう「悪い本」に任せるしかない。大丈夫。お子さんはあなたが思ってる何百倍も強くたくましくなります。多分。

魔女ジェニファとわたし(カニグズバーグ)

 カニグズバーグは子供のぎくしゃくした様子を描く名手である。これは現代の子供への批判、溌剌さがない、外で遊べない、友達と過ごせないに通じるものである。あの『クローディアの秘密』では、まず第一に主人公がリュックを背負って野宿するような昔風の家出には耐えきれないことを打ち出した。『魔女ジェニファとわたし』も同様であり、作品に出てくる子供は偏屈で、引っ込み思案で、生意気で、しかし友達と笑い合うことを心の奥底で望んでいる。

  転校してきたばかりのエリザベスは、ハロウィンの日に風変わりな黒人の少女、ジェニファと出会う。

「あんたといいあいはしないわ。」ジェニファはいいました。「魔女ってものはそうよって教えるだけで議論はしないの。」

 この一言だけでしびれるようなかっこよさである。それだけでなく、ジェニファはエリザベスの名前を当て、チョコレートクッキーを持っていることを当てる。同じ学校のいけ好かなくて、猫かぶりで、意地悪で、でもかわいらしくて大人から好かれるシンシアをいためつける。普段は学校に無関心を装うくせに、いざというときには先生を言い負かす。

 子供の多く、そしてかつて子供であった大人もジェニファのような友達を求めている。タフで、クールで、だれにも媚びない。そしてわたしたちを刺激たっぷりの世界に連れていってくれる友達である。

 ジェニファはエリザベスを弟子にして、魔女になるための修行をする。そのディテールがすばらしい。修行の内容も呪文も「これぞ魔女!」というものだ。

 クリスマス、二人は集まる。ジェニファいわく、クリスマスはみんなが幸福になるから危険なのだ。魔法の輪をつくり、おたがいの指をからげ、秘密の言葉を唱える。「ヘカテ ヘカテ ドック この輪のまわりを まわったならば キャンディは たちまちすっぱくなって スイカは かたい石となれ」……

 エリザベスは長い修行の後、めでたく免許皆伝となる。そしておさだまりではあるが、魔法の正体に気づき、師匠であるジェニファに反抗する。だれでもわかることであるが、そこからが本番である。魔女でも、魔女みならいでもなんでもなくなった二人は友人として楽しい時間を過ごせるようになる。

 

明日の子供たち(有川浩)

 中高生に人気の有川浩である。大学生も大好きである。うちの息子もめちゃめちゃ読んでいる。というわけでヤングアダルト作品であるとして今日は取り上げる。

 舞台となるのはとある地方都市にある児童養護施設「あしたの家」である。近頃めずらしくなった大型の施設で、約90人の子供が生活している。

 民間企業の営業職から施設に転職した三田村慎平が主人公である。お調子者で、素直で、やや無神経ながらも子供にかける思いは強い。勝気ながら涙もろい女性職員の和泉や、冷静で穏やかな猪俣、頑固でベテランの梨田、誰にでも優しく思いやりにあふれた福原に支えられ、三田村は成長していく。

 児童養護施設の実態を伝えるにはよくできた小説である。たとえば子供達は親に「捨てられた」のではなく、むしろいつまでも縁を切ってくれないからこそ苦しいときもあること。インタビューやルポルタージュではなかなか言いづらいが、本当にこれで困っている子供と職員は多い。また、年間の被服費は三万円、しかもそこに消耗品である靴下が含まれることは関係者でもなければわからない。

 ただ、だからこそ気になる点がいくつかあった。

 話の全体としては、二人の高校生が主軸となっている。聞き分けのいい奏子と、大人よりも大人びた久志。二人とも成績が良く同じ高校に通い(作中の高校生は学力やつ学距離からほぼ全員が同じ高校に通っているようである)進学希望だが、中堅職員である猪俣は奏子には反対している。防衛大学を志願し、奨学金や滑り止めで自衛隊に入ることを考えている久志に対して、奏子は考えが甘く、意識が低いと指摘する。

 奏子の受け持ちは和泉であり、二人はよく進学について相談する。奏子の希望は福祉や保育について学べる専門学校や大学であり、地元校か少し離れた女子大かで迷っている。……のはいいのだが、ここでなぜか和泉は通信制大学放送大学や国公立を勧めようとしない。通っている高校もそこまで悪くないようだし、成績もいいのだから地元の国公立に推薦で入ればいいような気もするが、なぜかそのことは作中で一切言及されない。そもそも福祉職というのもなかなか給料が低いし、待遇もよろしくないので医療系を目指して病院附属の看護学校を受けさせるとかそれくらいの揺さぶりがあってもいいだろうに。まさか作品世界で存在しないとか、そういう設定ではないだろうが……。不思議である。

 猪俣は以前安易に進学を勧めて失敗した経験があるので、進学について頑ななのだがこっそりと奨学金について調べている。分厚いファイルをつくり、これと決めた子供である久志には見せてもいる。が、やはりこれも奨学金だけで、ほかの進路については考えてもいないようである。

 そもそも、猪俣は久志を「意識が高く、考えている」と評価しているが、自衛隊に入るのだってリスクがある。親を頼れない久志の場合、なんらかの事情ができて退学(あるいは退職)したらどうするのか。猪俣はそれは心配でないのだろうか。「冷静で的確な指摘をしてくれる職員」というキャラクターなのだから、念のため県職員を高卒枠で受けるとかそういうアドバイスくらいしてもいい気がする。が、しないのである。なぜなんだろう?まあ、試験日程とか勉強の負担とかそういう問題だろうか。

 進学問題についてはそれくらいだが、後半につっこまずにはいられない描写がある。福祉関係者であれば下手すると青筋立てて怒る人もいるかもしれない。

 久志が図書館からの帰り道、福原に会うシーンである。久志は壮絶な虐待を受け、強制保護の末に施設に入った。多くの子供がそうであるように、しばらくは放心状態で、なにもしようとしなかった。福原はそんな久志に本を読むことを教え、高校生になる今となっては大変な読書家である。そして「なぜ本を読むことをすすめたのか」と尋ねる。

 福原の幼馴染は父親から虐待にあっていた。幼馴染には上に兄が二人いて、下の兄と幼馴染は読書が好きだったが上の兄はそうでもなかった。時が経ち、上の兄だけがなぜか父のように暴れるようになった。福原と幼馴染は、上の兄は読書が好きでなかったからそうなってしまったのではないかと推測したという。本を読むことで、他者の体験を追い、いざというときに助けられる。久志はそれを聞いて暖かい気持ちになる。そして大人になったら自分の好きな本は二冊買って、一冊は「あしたの家」に送ると決める。

 壮絶な虐待にあった子が放心状態ですんで良かったとか(中には長年傷が消えず、自分も他人も傷つけてしまう子供がいる。そして福祉関係者はそういった子を助けるために日々力を尽くしている)、いろいろ言いたいことはあるが、福原から久志に幼馴染について話すシーンが気になった。

 

「ヒサちゃん、虐待の連鎖って分かる?」

 久志は黙って頷いた。まるで怖いものを紐解くように、幼児虐待についての本は何冊も読んだことがある。

 

 ここからその幼馴染と読書の話になる。有川先生、これはないですよ。そもそも虐待の連鎖というものを否定する専門家も最近は多い。実際、虐待件数を見てみると被虐待経験のある保護者と、一般家庭で育った保護者とでそこまで差はないこともある。そもそも虐待というのは調査するのが難しい。また、虐待の連鎖について周囲がチラつかせることで施設にいる子供たちの偏見になり、プレッシャーとなり、苦しめることにつながるという指摘もある。

 仮に虐待の連鎖というものがあったとしても、それをわざわざ職員から子供に話すということはない。ましてや久志は相当な暴力にあっていたようだし、福原は施設長を務めるような人物である。たとえばこれが三田村で、そのあと先輩職員にお説教を受けるのであれば、話の展開上では納得できる。あるいは久志のほうからまわりの大人に質問するだとか。しかし温厚で子供一人一人を見ている福原が久志にそんなことをするのはおかしい。ようやく治った傷に塩をすりこめるだけすりこむようなものである。まあ施設の職員にもいろいろな人がいるので、そういう率直な子供との向き合い方が好きという人はいるかもしれない。しかし大半の職員は虐待についての話題を避けるように思える。

 もう一つ考えたいのは、読書をする人間の自意識過剰である。読書はたしかに想像力を培って、知らない誰かの追体験をできるだろう。しかしそれは本を読む環境があって、字を理解する能力があってこそのことである。久志が本を好きになれたのも、周囲の支えや本人の性格もあるが、幸運によるものが大きい。仮に虐待で脳や精神に深刻なダメージが残れば、本を読むどころではなかったのである。

 上のお兄さんもそうで、ひょっとすると彼には読字障害があったのかもしれない。あるいは上の兄ということでストレスがあり、本を読めるような心持ちではなかったのかもしれない。架空の物語にこんなことを言うのはおかしいが、保護者から不適切な育て方をされ、本を読まず、立派に社会生活をこなしながら愛情を持って子供を育てている人はたくさんいる。読書はそこまで万能か。えらいものか。そのことも考えなくてはならないだろう。

 

 瑣末なことだが、162ページの「ネガティブな条件付けをポジティブに変換したということになるのだろう。」の「条件付け」は通常「条件づけ」とひらがなで書く。確認した限り、文庫版でも漢字のままだった。

しずかな日々(椰月美智子)

 小学生の男子が母親の就職をきっかけに夏休みを祖父と過ごす話である。それだけ。しかし胸打つものがある。椰月は物語にしてもたいして面白くないものを、読めるものに昇華させる。

 光輝は勉強も運動も目立たない大人しい少年だ。父親はいない。会ったことすらない。母親といっしょにつましく生活している。

 五年生の進級で、彼に転機が訪れる。安心できる年配の女性教師が担任になる。クラスメイトの押野くんに野球に誘われる。飼育係になって、グッピーを育てる。毎日が楽しい、と心から思える日々だ。

 こういう偶然の重なりはたしかに子供の心を安心させる。思い返してみれば、私たちも担任や友人との相性に一喜一憂していた。係や当番がうまくできるか心配だった。あれは安心したいからだったといまならわかる。みんなと仲良くやれるか。遅れをとらないか。ときには眠れなくなるほど悩んだ。  光輝は幸運にもうまくいく。そのことに読み手である我々も真剣に安堵する。

 ところが製麺所で働いていた母親はある日いきなり店をはじめると言い出す。引っ越しをして、しかも転校までしなくてはならない。いやがる光輝を見かねて、母親は自分の父、つまり光輝のおじいさんのもとであずからせることを決める。

 ここからが本題なのでどんな日々を過ごすかは書かない。強いて言うなら古き良き日本の夏とするべきか。おじいさんは無骨で無口で、美味しい白米を炊いて漬物をつけることができる。朝起きて庭を掃除する。水撒きする。ラジオ体操。プール。縁側でスイカを食べる。友人が泊まりにやってくる。みんなで自転車に乗って冒険する。将来の夢を語り合う。

 わたしは時々、若い人(女性が多い)の書いた小説を読ませてもらう。そしてそのたひに日常を描いた小説というのは書くのが難しいのだと感じる。なにを食べて、どこに行って、みたいなことを素人が書いてもつまらない。淡々としたものほど作者の力量が出るのだ。

 さて、物語は本当に「しずかな日々」として終わる。最後の数ページで光輝や友人たちのその後が書かれる。光輝の母親がなぜとつぜん店を開くと言い出したのか。それはどんなものなのかが明かされる。そしてそのために光輝が少なからず傷を負ったことも示唆される。それでも彼は生きていく。

 たいていの人は子供のころの夢を叶えられない。それどころか人並みに生きていくのにも歯を食いしばっている。そうした生活を卑屈に感じるが、それは違う。毎日をしずかに心穏やかに生きていくことが自分自身を守る手段である。そのことを思い出させる小説であった。

直木賞・芥川賞をいずれ取りそうな児童文学作家

 いまでこそ大人向けの一般小説で活躍しているが、もともとは児童文学やヤングアダルトの分野で活躍していたという作家は意外と多い。たとえば江國香織森絵都がデビューするきっかけになったのは児童文学の賞である。というわけで、今後直木賞あたりを受賞できそうな児童文学作家をまとめた。


岩瀬成子

 『オール・マイ・ラヴィング』はたいへん面白かった。おかしな言い方だが、岩瀬は書かないで書ききる名手である。設定に社会問題をつめこみすぎないのも上手い。策に溺れないのだ。子供相手に文章と描写で読ませる稀有な作家である。この人が大人を主人公にしたものも読んでみたい。すでに『まつりちゃん』でやっているが、あれは短編なので、もっと長いのを。


藤野恵美

 失礼な言い方だが、この人の『七時間目シリーズ』も『ねこまた』もたいしておもしろいとは思えなかった。説教くさいというか、展開が読めてしまって。しかし『雲をつかむ少女』あたりから俄然うまくなってくる。今年はとうとう『ハルさん』がドラマ化である。中高生から三十代くらいの女性を狙ったものを売ると手堅いのではないか。


さとうまきこ

 『東京サハラ』は微妙なところだが、レーベルがヤングアダルトなのでまだ大人向けは書いていないとみなす。文のうまい作家にありがちな、「酔い」がない。酔いというのは文章だけつらつら重ねて、物語中にほぼ事件が起こらないこと。それが一切ない。また一つのモチーフ(自転車を盗むとか、謎のメッセージが書かれるとか)を扱いかたも自然である。


三田村信行

 『風を売る男』とか『ものまね鳥を撃つな』もそうだが、虚しさと切なさをにじませている。ハッピーエンドの作品でもどこかさみしげで寂寥感がある。この人の地味な長編が読みたいと常々思っているのだが、どこかの出版社が企画しないものかな。中年男性の死ぬまでを描いた作品とか、ひとつの街がほろびるまでの話とかそういうのがいい。


長谷川集平

 イラストや挿絵が主だが、この人は小説も書いている。『光年のかなたデヴォ』は正統派のSFであった。子供に理解できる内容であのタイムトラベルをまとめるのはたいしたものである。過去作品の復刊もかねて短編集でも書いてくれないものだろうか。


 以上である。思い出したり思いついたりしたらまた書こう。そういえば児童文学から一般小説というのはルートとしてめずらしくもなんともないが、その逆というのはほとんど見ない気がする。なぜなんだろう。だれかそういう作家を知ってたらコメントで教えてください。