児童文学評論記録

児童文学を評論する中年の日記

上級国民に怒る前に『みんなのなやみ(重松清)』を読んでほしい

 少し前にツイッターで「貧乏人の唯一の娯楽は怒り」と書かれたものが拡散されて、愕然とした。元のツイートをした人は怒りをどんなものと想定したのだろうか。レジや窓口で怒鳴り散らして暴れるような怒りなのか。はたまた「保育園落ちた日本死ね!」と社会に対して声を挙げるような怒りなのか。でも貧乏人が怒らなかったら、社会はいつまでも変わらないだろう。このツイートを拡散した人々はそれを良しとしているのか?様々な疑問が長いこと頭をよぎって消えなかった。ここまで複雑な気持ちになったのは、家庭内での性的暴行事件に対して「無罪判決を許さない」という運動がネット上に起きているからであった。その運動の中には、文筆業で素晴しい作品をつくりあげている人もいた。聡明で日々、医療現場で戦う医師も判決に疑問を投げかけていた。しかし「心ある市民が無罪判決を許さない」というのは恐ろしい話でもある。良識ある人であっても、いや良識ある人であるからこそ、法にもとづく判断は難しい。そこには様々な要因が事実、事情がからみあっていて、素人の手には負えない。そしてなにより重要なことは正義の気持ちというのは判断を誤らせる。許せないから、卑怯であるから、被害者が傷ついているからという気持ちで人を裁いていては刑務所がいくつあっても足りない。だから我々は法曹に判断を委ねている。中学生の社会科の教科書に載っているようなことだ。でもそれを法律の専門家ではない人々に理解してもらうことはほぼ不可能に近いと思い知らされた。その人が高い志と豊富な知識を持った人であっても、だ。

 その少し後に、池袋で高齢男性による交通事故が起こり、親子連れが犠牲になった。大変痛ましく、悲しい事故である。ますます悲しいことに交通事故はよくある事故だ。毎年、小学校にあがったばかりの子供が事故で死んでいく。そして我々は普段そのことを気にも留めない。ニュースを見て、気の毒で痛ましいと思い、すぐ忘れる。それだけである。ところが今回の事故ではそうはならなかった。事故を起こした男性が高齢であったこと(高齢者はいつだってネットの槍玉にあげられる)、高度な専門職に就いていたことにより「容疑者」とされないと思い込んだ人々が怒った。怒って、四方八方にその怒りをぶつけた。マスメディアに対しては権力へつらっていると怒りをぶつけた(マスメディアもまたしょっちゅうネットで攻撃されているものの一つである)。加害者が関わっていると考えられた企業には苦情が殺到した。加害者と姓が同じ人に対しては「家族も同罪」「被害者に謝れ」と強い語気で迫った。この前まで「怒りは貧乏人の娯楽」などと笑っていた人々が、ここまで強い怒りを表明することにためらいを見せることもしない。

 一連の流れを見れば、我々はいかに「怒る」生き物かがよくわかるだろう。政治に怒り、教育に怒り、司法に怒り、見知らぬ誰かに怒る。それは誰にも止められないし、止める権利もない。そして私たちはしばしば怒りの相手を見誤る。我々が加害者だと思っている人にもよんどころない事情があったのかもしれない。加害者の家族と思われる人は、姓が同じであるだけかもしれない。もっと大きなスケールで考えれば、痛ましい事件や事故は、個人のせいではなく、行政や制度の不備によるものかしれない。強い怒りを感じているとき、我々はそうしたスケールでものを考えられない。そして特筆すべきは、我々が加害者の立場になることをほとんど考えないことだ。我々は明日、人を轢き殺すリスクを抱えながら車を運転している。

 『みんなのなやみ』では小学生から大人までの様々な悩みに、重松清が答えを述べる。その中で「父親が交通事故で人を死なせてしまった」というものがある。このケースでは死亡した被害者に過失があったそうだが、それでも加害者家族は罪の意識と、被害者の家族から責められ、なじられることに悩んでいる。重松は相談者に「家族がより幸せになること」を提案する。

 罪を犯した人々に罰を与えることは非常に容易い。しかし、そのせいで数え切れないほどの悲劇が起こった。我々はその反省から司法制度をつくり、問題解決を行うことにした。高齢者の免許返納も、加害者の謝罪も、賠償金を払わせるシステムづくりも、どれも重要である。しかし、まず我々貧しい一般市民は怒りを持ちながら「被害者が幸せになる手助けをすること」を選択したい。あしながおじさん交通遺児のための基金団体)に寄付すること、地域の見回り活動を行うこと、手段はたくさんある。その手段を考えることこそが健全な怒りとの付き合い方ではないだろうか。

ムシャノコウジガワさんの鼻と友情(二宮由紀子)

 ナンセンスで楽しい童話である。

 ムシャノコウジガワさんはやたらめったら長くて大きな鼻の持ち主である。歩くたびに鼻が邪魔してよろけて転んで、鼻でできた穴にはまってしまう。そのたびに街の人々は立派な鐘を鳴らして、ムシャノコウジガワさんを起こしてあげなくてはならない。みんないい加減いやになり、問題を解決するために体育の先生に体操で体を鍛えてもらうことになる。

 あらすじはこれだけであるが、とにかく読んでいて楽しい。これは二宮が文中で(無意味な)説明を徹頭徹尾書いていることによるものである。ムシャノコウジガワさんと体育の先生だけでなく、パン屋さんや時計屋さんがどう思ってなにをしたかまでを事細かに書いている。ときどき小学生なんかが作文で「今日は運動会で朝から晴れていたけれどくもりにもなった。玉入れでは勝ったけど、リレーでは負けてしまった。応援にはおじいちゃんとおばあちゃんとお母さんとお父さんが来てくれた」みたいに書いたりすることがあるけど、それに近いものがある。

 結局のところ、ムシャノコウジガワさんは体育の先生に体操の模範演技をやらせ続ける。体操の先生はそのおかげでますます体が鍛えられて、簡単にムシャノコウジガワさんの鼻を持ち上げられるようになった。オチとしてはこれだけであるが、こういう「ただそれだけ」のオチをそのまま持ってくることは案外難しいものである。二宮の児童文学者としての力量が十二分に発揮されているといっていい。

ぼくが恐竜だったころ(三田村信行)

 結論から言うと、暗い。今世紀の児童文学最高の暗さである。

 中学生の水上誠也くんは両親の再婚に心を痛める中学生である。恐竜好きで、しょっちゅう展示に出かけている。ある日、『よみがえる恐竜展』で、「恐竜絶滅は大量の彗星によるもの」と発表した異端の天才科学者大矢野京太郎に出会う。心にやりきれなさを抱えるものどうし、意気投合するも、大矢野博士は誠也を地震の研究所に誘拐する。「君に恐竜を見せてやる」と言い出して。博士は自分の学説を証明するためにタイムマシンと人間を恐竜に変える薬を開発した。誠也に薬を飲ませて恐竜がいた時代にタイムスリップさせ、絶滅までの出来事を聞き出そうとしていた。テスケロサウルスとなった誠也は恐竜の友達をつくり、淡い恋心を抱き、穏やかながらも楽しい時間を過ごすが、やがて大人たちに翻弄される。

 当初、誠也は恐竜の時代に適応し、大矢野博士のことも信頼する。家庭内に居場所がない中学生にとって、孤独な現代よりも好きなものに囲まれた古代よりも遠い昔のほうが居心地がいいのは当然だろう。しかし物語が展開するにつれ、そう一筋縄ではいかないことがわかる。

 大矢野博士は三十年前、大企業ドリームワールドの勝見とともにタイムマシンの研究開発をしていた。しかし、二人は仲違いし、しまいには大矢野教授の放火によって計画は頓挫した。勝見は大矢野博士が誠也をつかった恐竜研究を再開したことを探り、探偵たちを派遣する。大矢野博士を探っていた人物はそれだけではなかった。大矢野博士は誠也だけでなく、他にも少年を恐竜に変えて昔の世界に送りこんでいた。そのうちの一人、加堂秀介はティラノサウルス【ガドン】になったはいいものの、過去から現在への転送がうまくいかずに恐竜のまま取り残されてしまった。加堂の母親はお手伝いとなって大矢野博士のそばにいた。

 もうこのあたりで誠也くんも読者も大矢野博士に愛想がつきてくる。三田村の人物造形のたくみなところである。最初、学会からも世間からも見放された孤高な天才のように思わせたからこそ、博士の十分人間っぽい(というか、人並み以上に欲深くて卑怯)ところにうんざりする。

 大矢野博士と大人たちはそんな誠也の気持ちも知らず、また恐竜の世界に行かせ、挙句恐竜を持って帰るように命令する。誠也はうんざりしつつも絶滅に向かう世界から、恋した恐竜ミナを連れて帰り、樹海で育てようとする。しかし慣れない世界でミナは衰弱する。とうとう観念した誠也は大矢野博士のもとに戻り、ミナをタイムマシンで恐竜の世界に返す。

 大野矢博士は勝見を恐竜の世界に片付けようとし、加堂秀介の母親は真実を聞き出し大野屋博士に襲いかかる。とうとうタイムマシンは暴発し、関係者は皆いなくなる。真実を知っているのは誠也だけだ。すべてが終わったある日、誠也はふたたび研究所のあった場所を訪れ、事の発端となった恐竜展のポスターを散り散りに破く。

 

 

 

 

 これで終われば、大変センチメンタルで美しい作品になったのに……。残り4ページのエピローグで我々はさらなる絶望に突き落とされる。文字通り、このエピローグはエピローグである。すなわち、物語の終わりだ。ある種ベタというか、SFでは使い尽くされた手ではあるが、しっかり辛い気持ちにさせられる。人間ってどこまでも定型が好きなんですね。このオチだけはしっかり自分で読んでいただきたい。

『さらわれる』(岩瀬成子)

 当然ではあるが、あらゆるフィクションは現実よりも面白くなるようにつくられている。児童文学も例外ではない。学校よりも家庭よりも習い事よりも楽しいと感じられるような物語でなくては、子供は食いつかない。

 岩瀬は常に「つまらない」物語を克明に書いている。しかも物語で扱われる題材はもやもやするような内容が多い。両親の不仲で親しくない親戚の家に預けられること、友達欲しさに嘘をつき続けること、クラスメイトとホームレスのおじさんに話しかけること。やっても褒められないし、かといって怒られないようなこと。でもそれこそが現実のような気がする。

 『さらわれる』の芽衣は危うい状態にいる。お父さんが亡くなって、転校し、新しい家に引っ越す(それもたいして離れていない街に)ことになる。高校生のお兄さんは勝手にアルバイトを始めるし、お母さんは念願のケーキ屋さんで働けて仕事のことで頭がいっぱいになっている。学校には馴染めないし、友達とも打ち解けていない。お父さんが買ってくれたカメラで気になる風景を撮り続ける。「写真をとっておきさえすれば、きっといつか、この光景をなつかしく思うだろう」という老成した考えで、学校でもシャッターを切る。そんなある日、引越し前に仲良くしていたモリくんが行方不明になったことで、彼女の周囲は混乱する。

 友達(というには微妙な関係とはいえ)の行方不明にもかかわらず、物語には決定的な盛り上がりはない。というか、ちょっといやな状況が延々と続く。芽衣は亡くなったお父さんを恋しがったりしない。生前の四角四面の言動にいまだにうんざりしている。嘘をつくことも、弱音を吐くことも、冗談を言うことも嫌っていたお父さんがなにも残さずに死んでしまったことに納得がいっていない。転勤族のよしみでクラスメイトの麻里ちゃんや香奈ちゃんが話しかけてくれるものの、振り回される形になっている。一緒にいたくはないが、一人でいるのもいやで、そこから抜け出せない。

 さらに行方不明になったモリくんも扱いづらい子供である。学校ではしょっちゅうもめごとを引き起こしているし、いままでも何回か家出していて、家族もそのことを困っている。芽衣だってモリくんのことがいまひとつ理解できない。しかもモリくんは近所の厄介者で、職業不詳の佐久間さんと一緒にいる噂まである。それでもモリくんのことを考えずにいられない。麻里ちゃんと香奈ちゃんがガールスカウト隊員のように貼りまくった「さがしています」の紙を剥がして、モリくんの尊厳を保とうとする。ところが、事件は思わぬ展開を迎える。なんとモリくんはいままでは知り合いの家にいて、そこからさらに行方がわからなくなってしまったという。芽衣のまわりにいる大人たちは困惑する。

 芽衣の周囲に表立って味方してくれるような優しい人はいない。みんな真面目で、善人で、そしてほんのすこしだけいやな感じの、つまり現実にいてもおかしくないような人たちばかりである。仕切りたがりの麻里ちゃんは、マラソンの練習を強行して、将来の夢の欄にわからないと書いた香奈ちゃんに「でもほんとうはダンスの先生とか、医者とか、スチュワーデスとか、目立つような派手な職業につきたいんじゃないの」と言い放つ。この悪口ではないが、言われたら確実にいやな気分になるような子供の発言はそう思いつくものではない。モリくんと途中まで一緒にいた佐久間さんもかなり難のある人だ。アメリカで暮らして(そしておそらくそこで挫折した)いたこと、昔のジャズのことしか話さない。叱られて逃げ出したモリくんを自分の生まれ故郷に連れていって、そこに一軒だけあるジャズクラブで生演奏を聞かせる。一見すると佐久間さんは、「黒猫がぼくの中にいていっしょに大きくなって、悪さをしてしまう」と話すモリくんをかわいがっているように思える。でも芽衣は勘づいている。佐久間さんは過去の時間を生きていて、誰にも関心なんか持ってはいない。モリくんのことだって特に好きでもなんでもない。モリくんはそのことがいやになって、本当の行方不明になったのではないか?

 モリくんにも芽衣にもはっきりした救いや変化は訪れない。モリくんはその後、宮崎で警察に保護される。そこでも自分の名前と住所はかたくなに言おうとしなかった。黒猫が自分の中にいるとまだ言い訳を続けている。芽衣は学校にカメラを持ってきてはいけないと注意される。そのことをほんのすこし恥ずかしいと思うが、次はシャッターチャンスを意識して写真を撮ろうと決意する。子供は子供でいる限り、居心地の悪さを感じ続けるし、そしてそこから抜け出すことができない。でも心の中で大人にそっぽ向くことならできる。これはつまらない現実を生きる子供が抵抗する、つまらない物語である。そしてそのことに大きな価値がある。

 

長い長いお医者さんの話(カレル・チャペック)

『ロボット』のカレル・チャペックである。この人は器用な人で、児童文学でも名作を書いている。アラビアン・ナイトのような、物語の中で物語が展開する形式をとっている。『ソリマンのお姫様の話』に出てくる、パンとチーズが美味しそうで食べてみたくてたまらなかったーそしていざ食べてみたらそれほど美味しいものでもなくてがっかりした、という人はけっこう多いのではないか。あれはなぜなんだろう、輸入の過程でなにか問題があるのだろうか?

 私がとくに気に入ったのが、『山賊の話』である。あるところにそれはおそろしく、やり手の山賊がいた。彼には一人息子がいたのだが、幼少期から実地練習として山賊になるため修行をしたり……しなかった。なぜか有り金をはたいて、修道院でやっている貴族や大金持ち御用達の名門学校に入れてしまった。そして礼儀作法から勉強まで学び、素晴らしい青年紳士になった。なったはいいが、父親である山賊が急死してしまい、跡取り息子として故郷に戻らなくてはならなかった。そして山賊として暴虐のかぎりをつくそうとするが、おぼっちゃま育ちの青年である。追い剥ぎだの、脅しだのはできない。相手が老婆ならフェミニストぶりを発揮してプレゼントまでしてしまうし、家庭に飢えた子供がいると嘘をつかれれば、だまされてお金を持たせる始末。とうとう困り果てた青年は修道院に助けを求める。

 チャペックは意欲的に新しい童話をつくろうとしている。そのためにこれまで王宮貴族や魔法使いしか出てこなかった物語に、郵便配達人を登場させた。だから山賊の子供が学校教育を受ける、というのも20世紀に登場した「国民みんなが一律の教育を受ける」という発想のもとに展開されたのだろう。しかし、山賊はなぜ養子をとるとか、そういう将来のための算段をしておかなかったのか。まあ、そういうことをしないからこその山賊と言われればそれまでなんだけれど……。

『ここからどこかへ』(谷川俊太郎)

 谷川俊太郎による中編児童文学である。文字数と文字の大きさからすると、小学校中学年向けか。しかし大人も楽しんで読めるクールでなおかつ心あたたまる童話である。物語はこんな数行から始まる。

 ぺったくんを知ってる?ぺったくんはぱったくんの弟さ。

 ぱったさんを知ってる?ぱったさんはぴったさんの妹なんだ。

 ぴったさんは知ってるね。もちろん、ぴったさんはぺったくんの兄さんだ。

 英語で比較級の構文を覚えるのにこういうのをやったなあ、と懐かしくなる。しかし洒落てますよね。要するにぴったさんとぱったさんとぺったくんの三人きょうだいが主要登場人物である。両親は南極で研究をして留守である。(ここはひょっとすると、文化人の家庭で育った作者の生い立ちが投影されているのかもしれない。)メインはぺったくんであるが、上と下の二人も大いに活躍する。

 ぺったくんはおばけがこわかった。そして「おばけが怖いのは、まだおばけに会ったことがないから」と自己分析して、おばけに会いにいく。理論的である。谷川俊太郎の言葉はすべて理論的な枠組みから成り立っている。そしてぺったくんは様々なおばけに会う。部屋の隅にいるへやのすみおばけ。屋根の上にいる電波おばけ。おならおばけ。だれかがだれかを好きになるとあらわれる好きですおばけ。ぺったくんがこっそりパソコンをいじってたらあらわれた文字おばけ。なんにもないことを愛するからっぽおばけ。笑ったり泣いたりで情緒が安定しない笑いおばけ。そしてぺったくんの両親がかみさまおばけ……。

 この物語はそもそも,1961年に創刊された『かがくクラブ』が初出である。この雑誌は二号で休刊したので、物語も途中で終わってしまった。その後、2007年に『未来創作』に復活したが、この雑誌も二号で休刊したため、また途中で終わった。その後、ようやく完結し、めでたく出版にいたったそうである。児童文学というのは流行り廃り、浮き沈みが激しい世界なのでたいしてめずらしいことでもないが、谷川俊太郎ほどの大御所でもこういうことはあるのか。

 作中ではディズニーランドのジャングルクルーズや、ウィキペディアなどの現代文明(?)も登場するが、初出を考えれば納得のレトロ感がある。ぱったさんが音楽好きのあまりモーツァルトに恋い焦がれたりね。今、音楽大学の学生でもそこまでクラシックが好きな子はいるのだろうか。

 ところで、ぺったくんがおばけを見られるのは子供にしかない〈きりぴすけーむ〉が残っているから、と書いてある。ためしに検索してみたが、なにも出てこなかった。造語?

 

番外編 中学・高校の演劇部でよくあること

 趣味で中学生や高校生の演劇部をコーチしている。これまでもう三校くらいに教えたか。どこの高校も偏差値55から60あたりのところで、それなりにみんな素直だし、楽しくやらせてもらっている。

 ここ十年見ていて感じるのは、もう最近は演劇が好きで演劇部に入る子は少ないということである。いや、都市部をのぞけばプロの演劇を見ることなんてそうそうないし、我々の現役時代も「本を読むのが好き」「目立ちたい」「衣装つくるの楽しそう」程度の理由で入る奴がほとんどだった。

 しかし昨今はちがう。

「声優になりたい」「アニメが好き」「ボカロにはまってて」

 いま教えてる学校では新入生の半分以上がこんな感じである。その都度、いや声優さんの演技は舞台のものと勝手がちがうよ。公演で扱うのはアニメとはかけ離れたもので、いわゆる2.5次元ミュージカルみたいなことはできないよ、と伝えている。

 で、毎年一人くらい「大丈夫です!舞台で演技の基礎を身につけて声優になります!」という子がいる。こっちもめいっぱい期待する。ところがこの手の子に限って、基礎練もやりたがらないし、脚本を読むのもつまらなそうだし、プロの舞台を見るのに誘っても「高い」と断られてしまう。下手するとやめてしまう子もいる。

 おそらく、こちらも無意識にプレッシャーをかけすぎているのだろう。尊敬する先輩が「子供には手と目をかけろ。期待はかけるな」とよく言っていた。教える立場になって、その難しさがよくわかる。

 声優になりたい、とまではいかなくてもアニメとマンガの世界を公演に持ち込みたがる子は多い。オタクにしかわからない台詞をアドリブで入れるとか、宣伝ポスターにアニメ調で女の子を描くとか、客出しにボーカロイドの音楽を使うとか……。

 生徒たちにとって、アニメとマンガの世界ってすごく安心できるものなんだろうな、と思う。思春期の過酷な時期に趣味の世界に入りこむのって、核戦争になったらシェルターに入るようなものである。心を豊かにする、とかそんな悠長な話じゃない。生命維持装置みたいなものである。だから彼ら彼女らがアニメを好きでいてくれることはうれしいし、ずっと楽しんでいてほしい。

 でもそれを公演ち持ち込まれると微妙な気持ちになる。私は生徒に演劇のプロになれ、なんて言いたくない。でもお客さんを楽しませる喜びは知ってほしい。そのためには譲れないラインがある。だから「けものフレンズのことは審査員の先生にわかんないよ。ネタとしてやるならせめてジブリくらいのアニメにしとこうよ」「高校の漫画部やイラスト部の子に比べても君は絵を描きなれてないよね。いくら上手いといっても、描く量が足りてないよ。画像加工のソフトで写真やフォントを組み合わせたほうがいいポスターができると思う」「今度の脚本はケラリーノ・サンドロヴィッチだよ。それを見終わったあとにボーカロイドの音楽は微妙じゃない?」と説得する。たとえ嫌な顔をされてもだ。

多分、わたしは古くて、頭が固いのだろうと実感はしている。でも、 どんな表現も世界観が統一されていることが一番大事だと思う。市民会館あたりで高校生がメイド姿で萌え声のお芝居をしても、「アニメ・マンガの要素を取り入れた」ことにはならない。単なるにぎやかしの余興になる。一度、「二次元もの」をもとにした舞台を見るとわかるが、あれはスタッフは死に物狂いで成り立っている。作品の迫力、かわいらしさ、勢いを表現するために照明も音楽も大道具も細心の注意を払っている。キャストはキャラクターになりきるため、体づくりを徹底するし、演技も妥協しない。こうした努力なしではアニメとかマンガとかゲームの世界って、人間が演じてもまったくおもしろくない。

 そして私は生徒に余興はやらせたくない。失敗してもいいから、ひとつの芸術作品をつくってほしい。だからまずは自分たちができる範囲の舞台のための作品—鴻上尚史とか柿喰う客とかキャラメルボックスとか—あたりをモノにしてほしいな、と思っている。